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Compilations : Consultation
教育に関する編纂書
その「日」に生まれる赤ん坊は、この時代の最も賢く、最も尊敬すべき者らよりも優れ、
また、その時代の最もみすぼらしく無学な者は、この時代で最も学識あり、
最も教養ある聖職者よりも、理解力において勝るであろう。
(バブから生ける文字らへの言葉より、「夜明けを告げる人々」)
I.バハオラの書からの抜粋

1.神の預言者達と使者等は、人類を一直線の真理の道に導く目的のためにのみ、下されてきた。彼らの啓示の根底にある目的は、人々が死に際して、最高の純粋さと聖別された状態、そして完全なる超絶をもって、最も高遠なる御方の王座にのぼるように、全ての人々を教育することである。(「落穂集」、81番)

2.おお、人々よ。あらゆる学問の最高にして究極の目標としてわれが定めたものは、全ての知識の目的である御方を認識することである。(「落穂集」、98番)

3.「教育者」という神の御名の光の啓示について...考えてみよ。万物において以下に、そのような啓示が明らかであるか、いかに全ての生存物の改善がそれに依存するか、見るが良い。この教育には二種類ある。ひとつは普遍的なものである。その影響力は万物に浸透し、万物を維持する。それゆえに神は、「全ての世界の主」という称号で呼ばれるのである。もうひとつは、この「御名」の影の下に来て、この強大なる「啓示」の庇護を求めた者らに限られるものである。しかし、この避難所を求めえなかった者らは、この特権を奪われてしまった。また、この「最大名」の天なる恵みを通して下された精神的な糧を得ることができないでいる。その差は何と大きなことか。(「落穂集」、93番)

4.人間は最高の「護符」である。しかし、適切な教育の欠如のため、内在するものを逃してしまっている。神の御口をもれる一言により、人間は生み出された。次に発せられた一言で、自らの教育の源泉を認識できるよう導かれた。さらに発せられた一言により、その地位と運命は保障された。偉大なる御方は告げ給う――人間を、計り知れない高価な宝石に富む鉱山と見なせ。教育のみがその宝を放出させ、人類にその利益を享受させることができるのである。(「落穂集」、122番)

5.地上の民の教育のために心と意思を傾けよ。そうすれば、人類の分裂をもたらす不和は、「最大名」の力を通じて、地上より拭い去られよう。そして、全人類はひとつの「秩序」の支援者となり、ひとつの「都」の住民となろう。(「落穂集」、156番)

6.われは、神の言葉をしもべらの間で賛美することにつながるもの、そして生存の世界の進歩と魂の高揚のためになるものを、全ての者らに定めん。このための最高の手段は、子どもの教育である。全ての者は主の、このことをしっかりと固守しなくてはならない。まことにわれは、様々な書簡や「最も神聖なる書」にて汝らに定めた。それに従う者は幸いなり。われは、あらゆる者が、「日の老いたる御方」のペンを通して現れ、下されたこの命令に従うよう、神に嘆願す。(これまで未翻訳の書簡より)

7.すべての父親には、読み書きの技能、そして「聖なる書簡」に示されている全ての事柄について、息子と娘を指導する義務がある。自らに命ぜられていることを怠る者については、父親が裕福であれば、信託人らは、教育に必要な費用を父親から徴収しなければならない。裕福でなければ、その事柄は、正義院に委ねられる。まことにわれは、正義院を貧しき者や困窮者の避難所となした。自分の息子、あるいは他人の息子を育てる者は、われ自身の子を育てたに等しい。そのような者には、世界を取り囲んだわが栄光と慈愛と慈悲とが宿らん。(「ケタベ・アグダス」、第48段)

8.男性も女性も、商売や農業やその他の職業によって得た収入の一部を、信頼できる者に委託し、子供らの訓練と教育のために費やすべきである。その委託金は、正義院の信託人らの助言のもとで、子どもらの教育のために投資さるべきである。(「世界の書簡」の第四原則、「ケタベ・アグダス後のバハオラの書簡」より)

9.内面的、外面的完璧性を得るために、あらゆる尽力を尽くすがよい。なぜならば、人間の樹の実とは、これまで内面と外面の両面における完壁性であったし、これからもそうであるのだから。人が知識や技能のない状態に放っておかれるのは望ましくない。そのような場合、人は実を結ばない樹にすぎない故に。したがって,才能と能力が許す限り、汝らは、知識、英知、精神的知覚力、雄弁な発言力といった実で生存の樹を飾らねばならないのである。(これまで未翻訳の書簡より)

10. 人間は鋼のようであり、その真髄は隠されている。勧告と説明、適切な助言と教育を通して、その真髄は明るみに出される。しかし、もし人が当初の状態に置かれたままなら、肉欲と欲望の腐蝕がまことに、その者を破壊するであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

11. 怠れば無駄になり、無に帰するものが多数ある。この世で、親を亡くし、教育と訓練に注意を向けなければ何の実りも結べない子どもらを何と多く目にすることか。実を結ばぬ者は生きているよりも死んだ方がましである。(これまで未翻訳の書簡より)

12. 信仰のしっかりとした子どもを育てるのは親の避けられない義務である。その理由は、髪の宗教を避ける子どもは、親そして主の気に召すような行動を取らないからである。あらゆる賞賛さるべき行為は、宗教の光から生ずるものである。この最高の賜物が欠けている場合、子どもは邪悪から顔を背けることがない。また、善へ引きつけられない。神の畏れは、創造物の教育における最高の要因であったし、今もそうである。そこに達する者らは幸いなり!(「狼の息子への書簡」、Epistle to the Son of the Wolf, p.27)

13. 子どもにとって最も重要なもの、最優先さるべきものは、神の一体性と神の法について子どもらに教えることである。これがなされなければ、神の畏れを教え込むことはできない故に。そして神の畏れがなければ、忌まわしく憎むべき行為が生じよう。そして境界線を越した言葉を発するであろう。親は子どもを宗教的に教育するよう、あらゆる尽力を尽くさねばならない。子どもらがこの最高の飾りを身につけなければ、親に従うことはない。これは、ある意味では、神に従わないことになる。まことに、そのような子どもらは、誰にも思いやりを示さず、思うがままのことをなす。(これまで未翻訳の書簡より)

14. 学校ではまず、子供たちを、宗教の原則においてしつけなければならない。そうすれば、神の諸々の「書」にて記されている「約束」や「罰則」が、禁じられている事柄を避け、命令のマントで子どもらを飾るであろう。しかしこれは、無知なる狂信や偏狭を生じさせて子供らを傷つけない程度に施さなくてはならない。(『楽園の言葉』、第八の葉、「ケタベ・アグダス後のバハオラの書簡」)

15. 芸術や工芸や科学は生存の世界を高揚させ、その進歩に役立つ。知識は人間の生命の翼のようであり、その上昇のための梯子のようである。その習得はあらゆる者の義務である。しかし、言葉に始まり言葉に終わるような学問ではなく、地上の諸民族のためになるような学問を習得すべきである...まことに、知識は人間の真の宝であり、その栄光と恩恵、喜びと高揚の源である。それを固守する者は幸いなり。無頓着な者は哀れなるかな。(「狼の息子への書簡」、Epistle to the Son of the Wolf, pp.26-27)

16. この時代の学識ある者らは、役に立つ知識を習得するように人々を指導しなければならない。そうすれば、学識ある者らも人類全般もそこから益を得よう。言葉だけに始まり終わるような学術活動はいかなる価値もなかったし、これからもそうなのである。ペルシャの学者貴社の大部分は、究極の実りが言葉だけであるような哲学の研究に人生の全てを捧げている。(これまで未翻訳の書簡より)

17. 子どもたちには、読み書きの技能を習得するため、最大の努力を尽くすことがふさわしい。ある子らには、緊急の必要事を満たす程度の書く能力で十分である。役に立つ分野の知識を学ぶために時間を費やせればより良いことであり、より好ましい。「最高のペン」が以前、記したことについてであるが、その理由は、あらゆる技能や技術において、神は最高の完璧性をお好みになるということである。

18. 神の知識の宝庫には、ある知識が隠されている。それは、適用されると、完全でなくとも大部分、恐れを取り除くことができるものである。しかし、この知識は、子どもの時から教えなくてはならない。それは、恐れを取り除くのに大いに役立つのであるから。(「狼の息子への書簡」、Epistle to the Son of the Wolf, p.32)

19. ショーギ・エフェンデイが上記(18番)の引用文で言及されている「知識」について尋ねられた時、彼の秘書は代理として、こう答えています--「残念ながら、『恐れを大部分取り除くことのできる』知識は、バハオラにより明らかにされていません。それで、それが何のことなのかは、わたしたちにはわかりません」。(ショーギ・エフェンデイの代理からチャールズ・クラッグ氏にあてられた手紙より、1948年1月5日)

20. 政府の役人たちが会合を召集し、多様な言語の中からひとつ、また同様に現存する文字の中からひとつ選ぶこと、あるいは新しい言語と文字を創って世界中の学校で子どもらに教えることが好ましい...このようにして、子どもらは二つの言語だけを学べばよいことになる。つまり、ひとつは母国語、もうひとつは、世界中の諸民族が意思疎通をするための言語である。ここで述べたことを、人々が固守するならば、全地球はひとつの国のごとく見なされるであろう。そして、人々は様々な言語を学び、教えることから解放されるであろう。(「狼の息子への書簡」、Epistle to the Son of the Wolf, p.138)

21. 神から下された言葉を最も麗しい調べで唱えられるよう、子どもらに教えよ。これは強大なる「書」にて啓示されん。(これまで未翻訳の書簡より)

22. 威厳と力の天から下された聖句を汝らの子供たちに教えよ。全てに慈悲深き方の書簡を、子供たちが、マシュレゴル・アズカルの床の間で、最も麗しい調べで唱えることができるようにするために。(「ケタベ・アグダス」、第150段)

23. 偉大なる御方は宣言なさる――究極の学識者と貫通力ある叡智を授けられた賢者とは、人類という身体の二つの眼である。神の意思にそぐえば、地球がこの二つの最大の贈り物を決して奪われぬように...あらゆる尽力の初めには、その終わりに眼を据えることが必要である。全ての技能や学問の中でも、子どもらには、人間の益となり、人間の進歩を確実にし、人間の地位を引き上げるようなものを学ぶようにさせよ。こうして、無法の有害な匂いは消し散らされるであろう。そして、国の指導者らの高遠なる努力により、全ての者は安全と平和の揺り篭で育まれよう。(これまで未翻訳の書簡より)

24.  子どもについて――われは、まずは宗教的な法と習慣においてしつけるよう指示した。それから、役に立つ学問の分野や、高潔な商工業的活動、さらには神の大業の勝利をもたらす行為、そして信者を主に近づける行為を追及するよう指示した。われは、神の愛されし者らの子どもを援助し、子どもらを叡智と善行と高潔性と廉直性で飾り給うよう、神に嘆願す。彼こそはまことに、許し給う方、慈悲深き御方なり。(これまで未翻訳の書簡より)

25. おお、フサインよ!おお汝、教訓者よ!「最大の牢獄」より、「日の老いたる方」の御顔は、汝の方へ向けられている。彼は、人類の主なる神の方へ汝を近づけるものを汝に教え給う。子どもを教育し、人々を授け給う方、最愛なる御方である神の道へと導くために立ち上がる教育者は、幸いなり。(これまで未翻訳の書簡より)

26. 神の聖約に忠実であり、子どもらの教育に従事する教育者は幸いなり。そのような者には、最高なるペンは、「最も神聖なる書」に啓示されている報酬が定められている。そのような者は幸いなり、まことに幸いなり!(これまで未翻訳の書簡より)

II.アブドル・バハの書簡より

27.おお神よ。あなたは、人間の輝かしい実在性に光輝を放ち給い、知識と導きのまばゆい光を放散し、この最高の恵みのために、全創造物の中から人間を選び給いました。また、人間が万物を包み込むようになし給い、自らの内なる本質を理解できるようになし給い、自らの神秘を明かせるようなし給いました。さらには、暗黒より眼に見える世界に人間をもたらし給いました。「神は、ご自身の望み給うもの全てに特別の慈悲を示し給う。」[1]

おお主よ、あなたの愛されし者らが、知識や科学や技能を習得できるようなし給え。そして、全創造物の最も奥なる実在性に秘められし秘密を明かせるようになし給え。万物の心に記され、埋め込まれている、隠されたる真理を知れるようになし給え。全創造物の間における導きの印となし給え。そして、この「最初の生命」[2]に光を放つ、知性の鋭い光線となし給え。

彼らを、あなたに導かせる者となし、あなたへの道へと案内する者となし、人々を御国へとせき立てる走者となし給え。

まことにあなたは、力強き方、保護なさる方、強力なる方、擁護なさる方、強大なる方、最も寛大なる方におわします。

おお神の同伴者らよ!あらゆる創造物に、「古来の主権者」はそれぞれの完全性と、独自の美徳と、特別な優秀性とを分け与え給うた。そうすることにより、それぞれが、それぞれの程度において、人類の真の「教育者」の荘厳性を示す象徴となるように。また、それぞれが、水晶のごとき鏡のように、「真理の太陽」の恵みと光輝を語れるように。

そして神は、全創造物の中から、人間を選び抜き、神の最もすばらしき贈り物を授け給い、人間が天上の「群集」の恩恵に達することができようなし給うた。贈り物の中で最も貴重なその贈り物とは、神のしくじることなき導きに達することである。それに達することにより、人類の内なる実在性が、このランプを置く壁がん(ニッチ)となるように。この光の散乱する光輝が心の明るいガラスに当たる時、心の純粋さがその光線を以前よりもさらに燦然と輝かせ、人々の心と頭にて栄光の光を輝かせるのである。

最大の導きに達するには、知識と英知が必要であり、「聖なる言葉」の神秘を知らされていなければならない。故に、神に愛されし者らは、老若男女にかかわらず、自らの能力に応じて、様々な分野の知識を習得するよう努めねばならない。そして、諸々の「聖なる書」の神秘をさらに理解し、聖なる証拠や証跡を整列させる能力を磨かねばならない。

著名なるサドルス・スドウル[3]は、まことに、「至福の避難所」にて高き地位に達したが、彼は、布教の会合を発足させた。かれこそは、このきわめて重要な機構の基盤を敷いた最初の祝福された魂である。神に誉れあれ――彼は生きている間に、今日の主なる神の強力で雄弁なる代言者なる人々を教育した。この彼の弟子たちは、「聖なる敷居」のとても近いところにいた、この人物の、まことに純潔で精神的な子孫である。彼が亡くなった後、幾人かのすばらしい者らが、彼の教育活動を恒久化するために行動を起こした。これを知った時、この「囚人」の心は歓喜した。

この時点にて、われは神の友らに、能力が許す限り、同じような活動を進めるように強く勧めん。知識の幅を広めるために努力すればするほど、結果はより良く、満足できるものとなろう。神に愛されし者らは、老若男女にかかわらず、自らの能力に応じて、自らを掻き立て、努力を惜しまず、現在存在する様々な知識の分野――精神的な知識も世俗的なそれも――や技能を習得できるようすべきである。会合に集う時には、彼らの会話は、学問的な分野や、現代の知識や科学の話題に集められるべきである。

こうするならば、彼らは、世界を「明白なる光」で満たし、この塵の世を「栄光の領域」の花園と変えるであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

28.おお汝、真の友よ!神の学び舎にて精神に関する教えについて読み、愛の「教育者」から内なる真理について学ぶがよい。そして天の秘密を求め、神のあふれんばかりの御恵みとご好意について語るがよい。

科学や教養を習得することは、人類の最大の栄光であるが、これは、人間の川が強大なる「海」へ流れ、神の古来の源より霊感を得るという条件においてのみ、そうなのである。このような時、あらゆる教師は岸辺を知らぬ海となり、あらゆる生徒は豊富な知識の泉となる。知識の追求が、全ての「知識」の「目的」である御方の美へと通じるならば、それは何と優れた目標であろうか。しかし、もしそうでなければ、おそらくはほんの一滴で、人は、溢れる恩恵から切り離されてしまうであろう。なぜなら、学識とともに傲慢とうぬぼれが生じ、神への無関心と過ちを引き起こすからである。

この世の諸学問は実在性の滴である。ならば、学問が実在性へと導かれなければ、幻想から何の実りが得られよう?唯一真なる神にかけて!学識が、最も明白なる御方である神へ近づく手段とならなかったら、それは明白なる損失に他ならない。

様々な分野の知識を習得し、「明白なる美」の美へ顔を向けることが汝のすべきことである。そうすれば、汝は、世界の諸民族の間の救済の導きの徴となり、この領域における理解の中心点となろう。しかし、その領域から賢者とその英知は閉め出されている。「諸々の光の王国』に足を踏み込み、覆われ、隠された神秘を知らされている者以外、その秘密はしっかりと守られている。(これまで未翻訳の書簡より)

29.人間は最高の物質段階にあり、精神性の始まりにあります。すなわち、人間は不完全さの終わりにあり、完全さの始まりにあるのです。人間は暗黒の最後の段階にあり、光明の始まりにあります。それゆえ人間の状態は、夜の終わりであり、昼の始まりであると言われているのです。つまり、人間はあらゆる不完全さを合計したものであり、様々な度合の完全性を持っているということです。人間は天使のような面を持つと同時に、動物的な面を持っています。教育者の目的は、天使のような局面が動物的な局面に打ち勝つように、人間の魂を教育することにあります。(「質疑応答集」、64章、第2段落)

30.人間は、神を代表する最大の存在であると言われています。人間は「創造の書」です。なぜなら、生存物のすべての神秘は、人間の中にあるからです。もし人間が「真の教育者」の下に来て、正しく教育されるなら、人間は、諸々の本質の本質、諸々の光の光、諸々の精神の精神となります。また、聖なる出現の中心、精神的特質の根源、天なる光の昇るところ、聖なる霊感の貯蔵所となります。もし人間がこの教育を奪われていれば、悪魔的な特性の顕現、動物的な悪徳を合わせたもの、あらゆる暗黒の状態の根源となるのです。

預言者が使命を持って現れる理由は、人間を教育するためです。その結果、この石炭の魂はダイヤモンドとなり、この実のならぬ樹はつぎ木とされ、最も甘く、美味な実をつけるようになるのです。人間が人間世界で最も高貴な地位に達すれば、完全性という状態で、さらに進歩することができます。しかし、その地位は変わりません。なぜなら、そのような地位は限られているからです。しかし、聖なる完全性は無限です。(「質疑応答集」、64章、第4-5段落)

31.綿密に調べてみると、虐待や不正、不義、不規則や無秩序の主な原因は、人々の宗教的信念のなさと無知にある。例えば、人々が真に宗教心があり、教育や教養があれば、問題が生じたなら、地方の当局者に相談することができる--もし、人々が公正に対処されず自分たちの権利を保護できないならば、そしてその地方政府の行為が神のお望みと国王の正義にそわないと思うなら、彼らはその事例をより高等な裁判所に持っていき、その地方の行政機構が精神的な法律からそれたことを説明することができる。そうすればそれらの高等裁判所はその事例に関する地方の記録を取り寄せることができ、このようにして、正義がなされるのである。しかしながら、現在のところ、不十分な教育のため、人民のほとんどは、自分の言わんとすることを表現するための言葉さえも欠けているのである。(「聖なる文明の秘訣」)

32.もっとも緊急にして主要な必用事は、教育の促進である。この最高にして根本的な事柄が推進されずして国が繁栄し成功するなど考えられない。人々の衰退と衰亡の主な原因は無知である。今日、大衆はごく日常の諸事についてさえ知らずにいる――それでは彼らはどれだけ時代の重要な問題や複雑な必要事の核心について理解していうことか。(「聖なる文明の秘訣」)

33.教育や文明の技術がいかに栄誉、繁栄、独立、自由を政府とその人民にもたらすかを見よ。(「聖なる文明の秘訣」)

34.ところで、教育には三つの種類があります。即ち、身体的、人間的、精神的教育です。身体的教育は、栄養の摂取と肉体的慰安と安楽による身体の成長、発達に関わっています。この教育は、動物と人間に共通しています。

人間的教育は、文明と進歩を意味しています。即ち、政治、行政、慈善事業、費易、芸術、手工芸、科学、偉大な発明、発見、級密な規則、これらは、動物と区別されるものとして、人間に本質的な活動です。

精神的教育は、「神の王国」の教育です。それは、神の完全性を身につけることにあり、これこそ真の教育です。人はこの段階で神の祝福の焦点となり、「人間をわれの像のごとく、われに似せて作ろう。」という言葉の顕現した人となるのです。これが人間世界の到達目標です。

そこで我々は、同時に身体的で人間的で精神的な教育者、しかもあらゆることに方のある権威を持つ教育者を必要とするのです。ですから、もし誰かが「自分は完全な理解力、知性を持っているから、そのような教育者はいらない。」というとしたら、彼は明白なことを否定していることになります。それはあたかも子供が「自分には教育はいらない。自分の理性と知性によって行動し、存在の完全さに到達するだろう。」といっているのと同じです。または、目の見えない人が「自分には視力はいらない。他の目の悪い人たちも苦もなく過ごしているのだから。」といっているのと同じです。

そこで、人が教育者を必要とすること、しかもその教育者は、疑う余地もなくあらゆる点で完全であり、すべての人を超越していなければならないことが明らかになります。もしそうではなくて、彼が他の人々と同程度であるならば、彼は人々の教育者ではあり得ません。もつとはっきり言うならば、彼は精神的教育者としてばかりでなく、同時に身体的、人間的教育者でなくてはなりません。即ち、彼は、人間に物質界のことを組織し、成就することを教え、どんな事態が起こっても世俗のことが組織され、規制されているように、生活する上で、協調と相互扶助を確立するための社会制度を形成することを教えなければなりません。同様に、彼は人間的教育も確立しなければなりません。つまり、彼は人間が完璧な発達をとげることができるように、知識や思想を教育しなければなりません。こうして、知識や科学が発展し、物ごとの真実、存在の神秘、生存の特性に気づくようにし、日毎に教訓、発明、法規は改善され、感覚にとらえられる物から知的なことがらに関する結論を引き出すことができるように教育しなければなりません。

彼はまた、精神的な教育も施さなくてはなりません。そうして、英知と理解力が形而上の世界に浸み渡り、聖霊のけがれを清めるそよかぜから恵沢を受け、最上の集合の仲間入りができるようにしなければなりません。彼は、人間の本質が神性の現われでる中心となるように、人間の本質を教育し、神の属性と神の名が人間の本質の鏡にまばゆく映り、「われは、人をわれのかたちににせて造ろう。」という聖句が実現されるほどの高みにまで教育しなければなりません。(「質疑応答集」、3章)

35.幾人かの者は、人間の生来の威厳の心が悪行を犯すのを防ぎ、人の精神的、物質的完全性を確実にさせると想像している。つまり、自然の知力や高遠な決意や精力的な熱意に特徴づけられた者は、悪行の結果として受ける厳しい処罰や、正義のすばらしい報いに対する考慮なしに、本能的に、同胞を傷つけることを控え、善行をなすことをしきりに求めるというのである。しかしながら、歴史の教訓について黙考するなら、この誇りと威厳そのものも神の預言者らの指図に由来する恩恵のひとつであることがわれわれにはわかる。また、われわれは、攻撃的な態度や無法な態度のしるしを用事に見出し、もし子供に教師の指図がなかったら好ましくない特質が常に増えていくということがわかる。したがって、人間のこの自然な威厳と誇りの心が教育の結果であることは明らかである。第二に、たとえ、論議のために本能的な知力と生来の道徳的な特質が悪行を防ぐということを認めたとしても、そのような特徴を持つ人は賢者の石と同じようにまれであることは明らかである。このような推測はただ言葉だけでは正当性を確認できず、事実によって支持されなければならない。想像の中のどのような力が大衆を公正な目標と行為に向けて駆り立てるのか見てみよう!

このほかに、もし、そのような能力を示すそのまれな人物が神への畏れの権化となったら、正義へ向けてのその人の努力は大いに教化されるであろうことは確かである。(「聖なる文明の秘訣」)

36.人間の間における差異、個人間の優劣に関して、物質主義者たちの間には二つの学派がある。ひとつは、これらの差異や優劣の差は生まれつきのもので、つまり、彼らの言葉を借りれば、自然の要求というものである。彼らによれば、種の内部における差異は生来のものであることは明白なのである。たとえば、自然界には様々な種類の樹がある。動物の種類もまた多様である。鉱物でさえも自然な多様性がある。たとえば、石の採掘場もあれば、半透明の濃い赤色のルビーの出る鉱山もある。真珠の入った貝もあれば、ただの粘土の固まりもある。

もうひとつの伝統的な哲学派は、個人差や知力や才能の多様性は、教育によるものだと考える。なぜならば、訓練により、曲がった枝はまっすぐとなり、砂漠の不毛な樹も育成できる。接木をし、実をならすようにすることもできる。最初は苦いかもしれないが、やがて甘い実をならすことができる。最初は小さいかもしれないが、やがて大きくなり、美味な実をならし、舌を喜ばす。

後者の学派が提示する最高の証明は次のとおりである。つまり、アフリカの部族は一般的に無知で野蛮である。他方、アメリカの文明人たちは一般的に、知恵と理解力を持ち合わせている。これらの民族間の違いは教育と経験によるものである。以上が、これらの哲学者たちの定論なのである。

しかし、神の顕示者たちは、差異は明らかに、かつ疑いようもなく生来のものであると断言する。また、「われはある者らを他の者らよりも優れるようになした」(コーラン17:22)ことは否定できない事実である、と述べている。人間がその性質上、互いに異なることは明らかである。幾人かの子どもについて考えてみよ。彼らは、同じ親のもとに生まれ、同じ学校へ通い、同じ教育を受け、同じ食事をする。しかし、ある子どもらは勉学に優れ、高い教養を修める。ある子どもらは中くらいの程度に達し、ある子どもらはまったく教育のしようがない。したがって、個人差は生来ものであることは明らかである。

しかし、神の顕示者たちは、訓練や教育も、明らかに大きな影響を及ぼすとも述べている。たとえば、もし子どもが教育の機会を奪われるならば、無知のままであろう。そのような子の知識は、自分で見つけられる発見に限られるであろう。しかし、もし能力ある教師のもとで科学や文芸を教わるならば、他の何千人もの人々が発見したことについて学ぶであろう。このように、教育は、道に迷った者らの導きである。それは眼の見えない者らの眼を開かせ、愚かなる者に分別力を授け、利益を生まない者に大いなる実りをもたらす。口の利けない者に発言させ、偽りの夜明けを真の朝と変える。教育を通して、小さな種は聳え立つ椰子の樹となり、逃亡の身の奴隷を君臨する王となす。

このように、教育が影響を及ぼすことは明らかである。ゆえに、神のご慈悲の「源泉」である神の顕示者らが、この世に現れるのである。そして、神聖の息を通して、彼らは人類を教育し、乳飲み子を強靭で勇猛な者となすのである。彼らを通して、地上の追放者らは「天」の大切な仲間となり、分け前のない者らは、分け前を受け取るのである。(これまで未翻訳の書簡より)

37.質間 人間には何種類の性格があるのでしょうか。人間にある相違と多様性の原因は何ですか。

答 人間には生まれつきの性格、遺伝で受け継いだ性格、そして教育によって得られる後天的な性格があります。

生まれつきの性格について言えば、神の創造は全く善であるにもかかわらず、人間の生来の素質の多様性は程度の相違から生じます。全ての人は優れていますが、程度によってより優れたり、劣ったりします。ですから、全ての人類は知性と才能をもっていますが、人々の知性、才能、価値は相違します。これは明らかです。

例えば、同じ家族の者で、同じ場所に住み、同じ学校に学び、同じ先生に教えられ、同じ食物で育ち、同じ気候の中に住み、同じ衣服を与えられ、同じ勉強をしている子供たちを考えてごらんなさい。ある者は学問に優れ、ある者の才能は普通であり、またある者はぼんやりしているということは確かです。ですから、生まれつきの性格には程度の相違と、価値と才能の多様性があることは明らかです。この相違は善悪の意味を持つのではなく、単に程度の相違を意味しているだけです。ある者は最高の程度であり、ある者は中位であり、ある者は最低の程度です。人間も動物も植物も鉱物も存在しますが、この四つの存在の程度は相違しています。人間の存在と動物の存在の間には何と大きな相違のあることでしょうか。それにもかかわらず、両者は存在するのです。存在には程度の相違のあることは明らかです。

遺伝した性質の多様性は、体質の強弱から生じます。つまり、両親が弱いと、子供たちは弱いでしょう。両親が強ければ、子供たちはたくましいでしょう。同じように、血統の純粋さは大きな影響を及ぼします。なぜなら、純粋な胚種は植物や動物に存在する優秀な血統のようなものです。例えば、弱々しい虚弱な両親から生まれた子供は、おのずから弱々しい体格と弱々しい神経を持っていることが知られています。彼らは悩まされ、忍耐力も、持久力も、決断力も、不屈の精神もなく、短気でしょう。その子供は両親の弱点と虚弱さを受けついでいるからです。

また、ある特別な祝福が、ある家族、ある世代の人たちに授けられています。アブラハムの子孫から、イスラエルの人々の全ての予言者が出たということは、そのような特別の祝福です。これは神がこの家系に与えられた祝福です。アブラハムの血を引く父母から生まれたモーゼ、母の系統から生まれたキリスト、マホメットとバブ、そしてイスラエルの全ての予言者と聖なる顕示者に祝福が与えられました。「祝福された美」(バハオラ)もまたアブラハムの子孫の系統です。アブラハムには、イスラエルとイサクの他にも息子たちがおり、その当時、彼らはペルシャやアフガニスタンヘ移住しました。「祝福された美」は、その子孫の一人なのです。

ですから、遺伝した性格も存在することは明らかです。そして、ある系統に肉体的に属してはいても、その起源の性格に一致せずに、精神的にはその家族のメンバーとは考えられないという程度までいろいろあります。ノアの一族とはみなされないカナン(創世紀9.25)のように。

しかし、文化による特質の相違もたいへん大きなものです。教育は大きな影響力を持っていますから、教育によって無知な者が物を知るようになり、臆病な者が勇敢な者になります。栽培することによって曲がった枝はまっすぐになり、山や森にあるすっぱく苦い果実は、甘く、おいしくなります。五枚の花びらをした花は、百枚の花びらを持つようになります。教育によって野蛮な国家は文明化し、動物さえも馴らされます。教育は最も重要なものとして考えられなければなりなせん。肉体の世界の病気は極めて感染しやすいものだからです。教育は広大な影響力を持っています。そして、それが及ぼす相違は実に大きいのです。

一部の人たちは、人間の才能や価値はそれぞれ相違している、だから才能の相違が性格の相違をもたらすというかもしれません。

しかしそういうことではありません。なぜなら、才能には生まれつきの才能と後天的な才能との二種類があるからです。神の創造である前者は全く善です。神の創造においては、悪はありません。しかし後天的な才能は、しだいに悪を出現させる原因になります。

例えば、神は砂糖や蜂蜜によって利益を受け、毒によって害され、破滅させられるように人間を創造し、そういう肉体と才能を授けました。この性質や肉体は生まれつきのものであり、神はそれを全人類に平等に授けました。しかし、人間は日々ほんの少しの毒を取って徐々に自らを毒に慣らし、しだいにその量を増し、ついには毎日一グラムの阿片がなければ生きていけなくなります。生まれつきの才能と肉体が変化して、ついにはさまざまな習慣や訓練によってどれ程大きくゆがめられてしまうか考えて下さい。人は誰しも、生まれつきの才能や性ゆえに、悪人を非難するのではなく、むしろ彼らの後天的な才能や性質ゆえに非難するのです。

創造には悪はありません。ある人々の中にある生まれつきの明らかに非難すべき、ある素質や性質は、実際には悪ではありません。例えば、乳児の内に、人生の最初から欲望や怒りや間癪の徴候が見られます。そこで、善悪は人間の本質に生まれついているのであり、こことは創造と性質の完全な善に反すると言われるかもしれません。この質問に対する答は、もっと欲しいと求める欲望が適切に使われるならば、賞賛すべき特質であるということです。ですから、もし人が科学や知識を習得しようとして貧欲になるとか、あるいは情け深く、寛大に、正しくなるために貧欲になるならば、最も賞賛すべきことです。もし怒りや憤怒を獰猛で野獣のような血に飢えた暴君に対して行使するならば、きわめて賞賛すべきことです。しかし、こうした特質を正しく用いなければ、非難すべきことです。(「質疑応答集」、57章)

38.現在普及している物質文明と、正義院によりもたらされる益のひとつである聖なる文明との違いとは、次のとおりである。つまり、物質文明は、懲罰と報復的な法律の力で人が犯罪を犯すのを抑制しようとする。しかし、あなた方もご覧のとおり、人を罰し、報復する法律は充満しているにもかかわらず、人を報う法律は存在しない。ヨーロッパやアメリカの全ての都市には、犯罪人を収容する巨大な建物が建てられている。

これに反し、聖なる文明は、ごく少数の者らを除いて、社会のあらゆるメンバーが、犯罪を犯そうなどと考えないほどに訓練する。このように、暴力的で報復的な手段による犯罪の防止と、罰や復讐が来るのを恐れるのではなく、あらゆる犯罪行為を避けるほどに人々を訓練し、啓発し、精神化することとの間には、大変な違いがあるのである。人々は人間の完全性に魅了されるであろう。そして、世界の光をもたらすもの、神の「聖なる敷居」にて受け入れられる特質を促進するものを全てに、人生を捧げるであろう。

物質文明と聖なる文明の違いがいかに大機なものか知るがよい。物質文明は、強制と懲罰で人々が危害を加えたり、社会に迷惑をかけたり、犯罪を犯したりするのを抑制する。しかし、聖なる文明では、人は、懲罰を恐れるのではなく、犯罪を犯すことを避け、犯罪そのものを最も過酷な苦悶と見なし、積極的に、かつ喜んで、人間の美徳の習得に励み、人類の進歩を促進し、光を世界中に広めようとするのである。(これまで未翻訳の書簡より)

39.「聖なる信教」の保護手段のひとつは、子どもらの訓練である。これは、全ての「聖なる教え」の最も重要な原則のひとつである。したがって、母親は最初から、乳飲み子を道徳の揺り篭で育てなければならない。子どもの最初の教育者は母親であるからである。そうすれば、子どもが成熟する時には、賞賛さるべき美徳や特質の全てを身につけているであろう。

さらに、聖なる訓戒によると、あらゆる子どもは読み書きを身につけ、必要で役に立つ分野の知識を習得し、技術や技能も学ばなくてはならない。これらの事柄には、最高の注意を払わなくてはならない。これらを怠ること、実行しないことは許されない。

いかに多くの刑罰機構や拘留所や拷問の場所が人の子らを収容するために建てられているか、見よ。これらの目的は、刑罰によって恐ろしい犯罪を防ぐことなのである。しかし、実際には、この苦悶や罰が腐敗を悪化させるだけなのである。そのような手段では、目標とすることは適切に達成できないのである。したがって、人は幼い時からしっかりと訓練されなくてはならない。それにより、決して犯罪を犯したりせず、いやむしろ、優秀性のために全精力を注ぎ、邪悪な行為を犯すこと自体を最大の罰と見なし、罪深い行為そのものをいかなる禁固刑よりもはるかにひどいものであると考えるほどになるであろう。犯罪は完全になくすことはできないかもしれないが、犯罪がとてもまれになるほどに、人をくんれんすることは可能なのである。

主旨は、このとおりである。つまり、人間の人格の訓練は、神の訓戒の中で最も重要なもののひとつである。そのような訓練の影響は、太陽が樹やその実に及ぼすものと同じである。子どもらは最も注意深く見守り、保護し、訓練しなくてはならない。そこい、真の親のあり方があり、親としての慈悲があるのである。

さもなくば、子どもらは野生に生える雑草になり、呪われた「地獄の樹」(ザクームの樹、コーラン37:60、44:43)となる。善悪の違いを知らず、人間の最高の特質と、卑劣・下劣な特質との違いもわからなくなる。虚無のうちに育てられ、お許しなる主からも忌み嫌われよう。

ゆえに、天なる愛の園に生まれたばかりのあらゆる子らは、最高の注意と訓練を要するのである。(これまで未翻訳の書簡より)

40.誤った行いの根源は無知である。したがって、理解と知識という手段にしっかりとつかまらなくてはならない。善良な人格を教え込まなくてはならない。光を遠くまで広げなくてはならない。そうすれば、人類という学び舎において、全ての者が精神の天なる特徴を習得し、邪悪で不健全な性格を有することほど恐ろしい地獄、すさまじい奈落の底はないと自分で確信するようになろう。そして、咎められるべき特質を示すことほど暗黒の落とし穴、恐ろしい苦悶はないと思うであろう。

人は、嘘をつくよりは喉を切られたほうがましだ、あるいは、中傷を吐いたり、怒りで我を失うよりは剣で切られたほうがましだと思うほどに教育されなくてはならない。

こうして、人間の尊厳や誇りといった間隔が植えつけられ、貪欲の穂を焼き尽くしてしまうであろう。そうして、神に愛されし者らはめいめい、精神の特質をもって明るい月のごとく輝き、主の「聖なる敷居」との関係は幻想ではなく健全で真のものとなろう。そして、その関係は壁面の装飾物ではなく、建物の土台そのもののごとくとなろう。

要するに、子どもの学校は最高のしつけと秩序の場所でなければならない。また、徹底した指導を施し、人格の矯正と洗練のための対策がなされなくてはならない。そうして、幼い時から、子どもの本質の内部で、聖なる基盤が敷かれ、神聖の構造が建てられよう。

子どもを指導し、矯正し、洗練し、励まし、そして元気づけることは、最も重要なことであることを知るがよい。これらは神の基本的な原則である。

このように、もし神の御心にかなえば、これらの精神的な学校から、人類の最高の美徳の全てを身につけた子どもらが生まれ、その光をペルシャだけではなく世界中に放つであろう。

思春期が過ぎてから子どもを教育し、人格を磨こうとするのは非常に難しい。経験が示すように、その頃には、性格の傾向を矯正しようとあらゆる努力を尽くしても、効果がない。今日だけ少し良くなるかもしれない。しかし二、三日もたてば忘れてしまい、もとの慣れた習癖にもどってしまう。したがって、しっかりとした基盤づくりをしなければならないのは、幼児期なのである。枝がまだ青く、柔らければ、容易にまっすぐにすることができる。

ここで言わんとすることは、精神の特質が基礎であり、聖なる基盤なのであり、人間の真の本質を飾るのである。そして知識が、人間の進歩のもととなるのである。神に愛されし者らは、この事柄を最も重視し、熱意と情熱を持って促進しなければならない。

教育者がいなかったなら、全ての魂は野蛮なままであろう。教師がいなかったら、子どもらは無知な生き物となってしまう。

それゆえに、この「新しい周期」において、教育と訓練は、神の書において、自発的なものではなく、義務的なものとして記されているのである。つまり、最大の努力を尽くして娘と息子を訓練し、知識の乳房から彼らに飲ませ、科学や文芸の胸元で育むよう、父親と母親に義務として命ぜられているのである。この事柄を怠るならば、彼らは、厳格なる主の御前にて責任を問われ、叱責を受けるであろう。(「アブドル・バハの書簡」、第3巻、pp.578-579)

41.バハオラの教えのひとつは、教育の促進である。あらゆる子どもは、必要な限り、学問の教育を受けなければならない。その経費を親がまかなえないならば、共同体がその子どもの教育日を供給しなくてはならない。(アブドル・バハから「ハーグの継続する平和の中央組織」にあてた手紙より、1919年12月17日)

42.神の信教の揺るがせない支柱として確立されたものがいくつかある。その最強のものは、学識であり、知性の活用、意識の拡大、宇宙の実在性と全能者なる神の隠されたる神秘に関する洞察力である。

このように、知識の促進は神のあらゆる友らに課された、避けることのできない義務である。神の会合である、その精神行政会は、子どもの教育のためにあらゆる努力を尽くさなくてはならない。それにより、子どもらは幼い時から、バハイとしての振る舞いや神が説かれる生き方をするように訓練されよう。そして、若木のように、「祝福の美」の勧告と訓戒であるやさしく流れる水で繁茂し、繁栄するであろう。ならば

心身こめて努力せよ。この目的のために舌を緩め、所有物を犠牲にせよ。さらばイシュカバードの学び舎は規律と秩序において常に進歩しよう。(これまで未翻訳の書簡より)

43.汝は子供について書いた。最も幼い時から、子どもらは聖なる教育を受け、彼らの神を記憶するように思い起こさせられなければならない。母親のミルクと一緒に、彼らの最も内なる存在に神の愛を混ぜ、浸透させよ。(これまで未翻訳の書簡より)

44.これらの子どもらがバハイの教育を受け、この世界と御国の両方にて進歩を遂げ、汝の心を喜ばすこと、これがわが望みである。

やがて道徳は極端に乱れるであろう。子どもらがバハイの生き方で育てられることが不可欠である。そうすれば、この世と来たる世の両方で幸福を見出そう。さもなくば、彼らは、悲しみと困難に襲われよう。なぜならば、人間の幸福とは、精神的な振る舞いを基盤とするからである。(これまで未翻訳の書簡より)

45.神の聖なる息にて魅せられた汝よ!

子どもの教育は、最も重要な事柄である。幼子は、まだ乳飲み子の時からバハイの訓練を受けなくてはならない。キリストやバハオラの愛情深き精神を吹き込み、福音書や「最も神聖なる書」の真理に従って育てなくてはならない。(これまで未翻訳の書簡より)

46.神の御国に眼を据える汝よ!

汝の手紙は受け取った。汝は信者の子どもらの教育に従事し、これらの幼子たちが「隠されたる言葉」や祈りを学び、バハイであることの意味を学んでいると書いてあった。

これらの子どもらを指導することは、栄光に満ちた御方の花咲く野原にある若木を世話するようなものである。それが目標とする成果を生むことは疑いのないことである。バハイとしての義務や振る舞いについて指導することは特にそうである。なぜなら、幼子たちは「バハイ」とは単なる名前ではなく、真理であるということを心と魂において知らされる必要があるからである。あらゆる子どもは、精神の事柄について訓練を受けなくてはならない。それにより、あらゆる美徳を具現化し、神の大業へ栄光をもたらす基となろう。さもなくば、「バハイ」という言葉は実をならすことなく、無に帰するのである。

ではバハイとはあらゆる完全性を具現化する者であり、暗闇に暗闇を重ねながら「バハイ」という名をつけた者ではなく、灯された蝋燭のごとく光る者を指すということをこれらの子どもらにわからせるよう、最善を尽くすがよい。この学校をバハイ日曜学校と呼ぶがよい[4]。(これまで未翻訳の書簡より)

47.われは以前に、子どもの教育について詳しい手紙を書いた。つまり、信念、確信、学識、精神的知識について、そして天なる御国へ嘆願の心持て呼びかけることを教えることについて書いた手紙である。

汝がこの目的のためにあらゆる努力を尽くすことは明らかである。(これまで未翻訳の書簡より)

48.子どもの教育に関する汝の質問について――神の愛の胸元にて子どもらを育み、精神的な事柄の方へ彼らを急き立てることが、汝には似つかわしい。彼らが神の方へ顔を向け、彼らの振る舞いが善き行いの規則にかない、性格が最も優れるようになすがよい。また、人類のあらゆる賞賛さるべき特質と恵みとを修得させ、学問の様々な分野をしっかりと学ばせよ。されば、最も幼い時から、彼らは精神的な存在となり、御国に住む者となり、申請の甘美な息吹に魅せられ、宗教的でかつ精神的な、天の領域の教育を受けるであろう。まことにわれは、子どもらがこれにおいてすばらしい結果を出せるよう、神に嘆願す。(これまで未翻訳の書簡より)

49.おお愛情深き友らよ!様々な分野の知識を習得し、真の知識を得られるよう、あらゆる努力を尽くすがよい。物質的かつ精神的業績を達せられるよう、尽力を惜しむなかれ。

幼い時からあらゆる種類の学習を収められるよう子どもらを励まし、あらゆる技能に優れるよう、奨励せよ。この目標は、神のご好意なる御恵みにより、めいめいの心が宇宙の秘密を映し出す鏡のようになり、万物の最も内なる実在性を貫通し、全ての分野の知識や科学や技能において世界中で著名となるように、ということである。

子どもの教育を決して、決して怠ることのないように。精神的特質を合わせ持てるように彼らを育てよ。そして、主の贈り物とご好意のあることを確信せよ。(これまで未翻訳の書簡より)

50.おお「聖なる敷居」における二人の僕よ!汝らが子どもの教育のための集まりを準備したと聞いて、われは非常に喜んでおり、また元気づけられた。

そのような集まりで活動する者らは、それが子どもらの教師であれ、後援者であれ、眼に見えぬ「領域」からの確証を受けるであろう。また、限りなき恩恵が彼らを取り巻くであろう。

ゆえに、この非常に賞賛さるべき努力は、大いなる喜びを持って奨励されん。汝らが、大いなる報いを受けんことを。

汝ら、慈悲に満ち給う御方の確証が必ず下されるのを待つがよい。(これまで未翻訳の書簡より)

51.おお、神にこよなく愛されし二人の侍女よ!人が自分の舌で語ることはすべて、行動で証明させよ。信者であると証する者には、アブハ王国の訓戒に応じて行動させよ。

神に誉れあれ。汝ら二人は、自らの言葉の真実を行動で示した。そして、主なる神の確証を勝ち得たのである。汝らは毎朝夜明けの日が差すや否や、バハイの子どもらを集め、祈りと瞑想を子どもらに教えている。これはまことに褒められるべき行為であり、子どもらの心に喜びをもたらす。こうして子どもらは、毎朝、顔を御国の方へ向け、主について語り、主の名を賛美し、最も麗しい声で詠唱し、朗唱するであろう。

これらの子どもらは、若木のようである。祈りを教えることは、雨を彼らの上に降らすようなものである。こうして彼らは、新鮮で柔らかくなるであろう。また、神の愛という微風が彼らの方へ吹き、喜びのために震わすであろう。

祝福と麗しき安息所が、汝らを待っている。(これまで未翻訳の書簡より)
52.おお、聖約に確固不動なる者よ!

汝の手紙は届き、大いなる喜びをもたらした。そこには、神に誉れあれ、アブハ楽園の若者らが、天なる御恵みの雲から四方に降ってきた雨により、青々と茂り、繁茂していると書かれていた。また、彼らは、天なる導きという四月の雨を受けて活き活きと成長し、繁栄し、日ごとに進歩している、と書いてあった。

彼らの一人ひとり導きの旗印なり、栄光に満ちた御方の領域から下される賜物の象徴となることは確実である。彼らは、知識の庭園において麗しい調べをさえずるナイチンゲール(うぐいす)となろう。神の愛という草原を走り回る、柔和で美しいガゼルとなろう。汝は、子どもの教育を最も重視しなくてはならない。なぜならば、これは、神の法における基盤であり、神の信教という殿堂の礎なのであるから。

子どもらのためになしたことによって、どれだけの喜びを汝がもたらしたかを知ったならば、信者らは、子どもらを同じように教育するであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

53.おお、真の伴侶よ!全人類は学び舎の子どもたちのようであり、「光が差す点」、聖なる啓示の「源泉」なる者らはその、比類なき、すばらしき教師である。実在性の学び舎にて、彼らは神の教えに応じて息子や娘を教育し、恵みの胸元で養う。それにより、あらゆる面で発展し、主の優れた贈り物と祝福を示し、諸々の人間的完全性を合わせ持つであろう。また、あらゆる活動において進歩を示すであろう。それは外面的な面、内面的な面、隠された面、眼に見える面、物質的な面、精神的な面――全てにおいてである。そうして遂には、この滅ぶべき世を、滅ぶことなきもうひとつの世を映し出す、大きく広げられた鏡となすであろう。

おお、神の友らよ!この最も重要なる時代にて、真理の太陽は春分時に、最高地点に昇り、あらゆる地方へその光線を発した。それは振るわせるほどの、生存世界を振動させ、成長と発展を促し、輝かしい栄光の光を持って流れ出で、恵みの雲は豊富な雨を降らせ、野原や草原は甘い香りのする草花の集まりであふれるであろう。そうして、このみすぼらしい地上はアブハ王国となり、この下界は天上界のごとくなろう。そして遂には、この塵の点は大空を取り巻く天空となり、この人間の住む地は神の宮殿となり、この土くれは主の中の主なる方の限りなきご好意の源泉となろう。

ゆえに、おお、神に愛されし者らよ!汝ら自身が、この進歩とこれら全ての確証を示せるようになり、神の祝福の中心点となり、神の一体性の光の曙となり、文明化された生活の贈り物と恵みを促進する者となるまで、大いなる尽力を尽くすがよい。汝ら、その地において、人類の完全性の先駆けとなり、様々な分野の知識を促進し、発明や技能の分野で活発に活動し、進歩を遂げよ。人々の行動を正し、道徳的人格においては全世界を勝るほどになれ。子どもが幼い時から、天なる恵みの乳を飲ませ、全ての優秀性という揺り篭であやし、恩恵に包んで育てよ。子どもたにはあらゆる役に立つ知識を学ばせ、あらゆる最新の、めずらしい、驚くべき工芸や技能の恩恵を預からせよ。勤勉に努力するようにしつけ、困難に慣れさせよ。非常に重要な事柄に身を尽くすように教育し、人類の役に立つような学問を修めるように奨励せよ。(これまで未翻訳の書簡より)

54.子どもの教育と訓練は、人間のなす行為の中で最も賞賛さるべきもののひとつであり、全てに慈悲深き御方、神の恵みと好意をひきつける。なぜならば、教育は、人間の全ての優秀性のかけがえのない基盤であり、人が永続する栄光の高みに登り詰めるのを可能にするからである。もし子どもが幼い時から訓練されるなら、「聖なる庭師」の愛情深き世話により、精神と知識の水晶のごとき水を、細い小川の若木のように飲むであろう。そして必ずや、真理の太陽の明るい光を寄せ集め、その光と熱により、生命の園で常に新鮮で美しく成長するであろう。

ゆえに、指導者は意思のようであらねばならない。つまり、子どものを指導する時には、欠点を正し、知識を授け、同時に、精神的な性質を身につけるように育てなくてはならない。教師は、子どもの人格を形成する医師のようであれ。そうして、人の子らの精神的病を癒すであろう。

この大いなる仕事にて大変な努力を尽くせば、人類世界は他の飾りと共に輝き、最も美しい光を放つであろう。そうして、この暗い世は輝き、この地上は天国と化すであろう。悪魔そのものが天使となり、狼は羊の群れとなり、野生の犬の集団は一体性の草原で草を食べるガゼルとなろう。また、飢えた獣たちは柔和な動物の群れとなり、ナイフのように鋭い爪を持つ肉食の鳥たちは天性の美しい調べで囀る歌鳥となろう。

なぜならば、人間の内なる実在性とは、光と影の境界線であり、二つの海が出会うところゆえに[5]。それは下降の円弧の最低地点であり、ゆえに、その上にある全ての段階に達することも可能である[6]。教育により全ての優秀性を得ることができる。教育がなければ、不完全性の最低地点にとどまるのである。

あらゆる子どもは、世界の光となる可能性がある。そして同時に、暗黒となる可能性もある。したがって、教育という事柄は最も重要なものと見なされなくてはならない。子どもは、幼い時から神の愛の胸元であやされ、神の知識に抱かれて育てられなくてはならない。それにより、子どもは光を放ち、精神性を増し、英知と学識で満たされ、天使の軍勢の特徴を身につけるのである。

汝らはこの神聖なる仕事を任務づけられたゆえに、その学校があらゆる面で世界中に知られるようになるよう、あらゆる尽力を尽くさねばならない。また、それが主の御言葉を高めるところとなさねばならない。(これまで未翻訳の書簡より)

55.人が全能なる神に対してなすことのできうる最高の奉仕のひとつは、アブハ王国の若木である子どもらの教育と訓練である。それにより、これらの子どもらは、救済の恵みにより育まれて、教育という貝殻の聖なる恩恵の真珠のように育ち、やがて永続する栄光の王冠をその真珠でちりばめるであろう。

しかし、この奉仕を施すことはとても困難である。いや、成功することはさらに難しい。汝がこの最も重要な仕事を十分に果たし、日々成功し、神の豊富なる御恵みの徴となることをわれは望んでいる。また、これらの子どもらが、すべて聖なる教えにて育てられ、栄光に満ちた御方の庭園に吹く麗しい微風のような性質を身につけ、その芳香を世界中に漂わすことを望んでいる。(これまで未翻訳の書簡より)

56.おお、祝福された美のしもべよ!

汝は幸いなり!なぜなら、汝はその顔をアブハ王国で輝かせるような奉仕を施しているからである。つまり、子どもの教育と訓練に携わっているからである。子どもを正しいやり方で教育し、訓練するならば、聖なる敷居にてこれ以上すばらしい奉仕はない。われわれの聞いたところによると、汝はこの奉仕で成功を収めているということである。しかし、汝は、より完全になり、よりすばらしい成果を得るように、努力を続けなくてはならない。

汝がこれらの子どもの知性を啓発し、彼らの心を活気づけ、魂を聖別できるよう、われは全能なる神に常に嘆願せん。(これまで未翻訳の書簡より)

57.より深い知識の教室におけるそれらの若き魂たちが、愛をしつける者により教えられることがアブドル・バハの願いである。彼らが精神の可能な限り、隠されたる神秘についてよく学ばんことを。されば栄光に満ちし御方の御国にて、彼らのめいめいが、言葉を授けられたナイチンゲールのように、天なる領域の秘密について叫ぶであろう。また、恋い焦れる愛人のように、敬慕する御方への渇望と切望を心から発するであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

58.おお、神の侍女なる汝よ!天なる学校を確立し、その学び舎にて教師となるが良い。神に関する事柄について子どもらに教えよ。そして真珠のごとく、聖なる導きの貝殻の中心にて彼らを育てよ。

心魂こめて努力せよ。人類最高の完璧性を具現化できるように子どらを育てよ。されば彼らのめいめいが知性を用い、知識を習得し、謙虚さと謙遜さとを身につけ、威厳と熱意と愛を備えよう。(これまで未翻訳の書簡より)

59.女性の教師について問い合わせよ。そのような教師は非常に慎ましく、温和でさえあり、寛容で、育ちが良く、英語に熟練した者でなくてはならない。(これまで未翻訳の書簡より)

60.おお、精神的教師なる汝よ!汝の学校にて、神の子らに御国の習慣についてしつけよ。汝、和合の学び舎にて愛の教師となれ。慈悲深き御方の友らの子どもたちをその御方の慈愛の規則ややり方について訓練せよ。アブハ楽園の若木を、その御方のあふれる御恵みと平和と喜びで育てよ。子どもらが、御恩恵のほとばしりのもとで繁栄するようになすがよい。天国の庭園の理想的な樹のように、子どもらがそびえ立ち、新鮮で優美で甘美に成長するよう、全力を尽くせ。

これらの贈り物や恩恵は全て、栄光に満ちた御方の美への愛に依存する。また、最も高遠なる御方の教えの祝福に、最高の群集の精神的教えに依存する。そしてさらには、人類等共同体の栄光の栄誉につながるもの全てを熱心に追及することと、情熱と忘我の状態とに依存する。(これまで未翻訳の書簡より)

61.今日の進んだ知識を習得することにあらゆる努力を払い、聖なる文明を推進するために全力を尽くすが良い。次のような教師を通して、しっかりと組織された学校をつくり、様々な分野の教育に関する基礎を促進せよ。つまり、清く聖別され、高い標準の振る舞いと全般的な優秀性で傑出し、信仰が強い教師、科学や芸術に関する徹底した知識をもっと教育者らを通して、である。

神の大業の翼成者という崇高な機構は、これらの学校をあらゆる点において見守り、保護し、必要事が満たされるようにしなくてはならない。そうすれば、進歩のための手段が全て入手でき、学識の光は全世界を照らすであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

62.おお聖約に確固たる者よ!汝の手紙に対する返事であるが、簡潔に答えざるを得ない。神を賛美せよ。汝は、アブハ楽園の若木なる若きバハイたちの教師となることができた。また同時に、他の子どもらの役にも立っている。

明白な聖なる書によると、子どもの教育は不可欠な義務である。教師たちは主なる神の僕である。なぜならば、彼らはこの仕事をするために立ち上がったのだから。これは、崇拝と同じ行為である。ゆえに汝は、息をするたびに賛美をしなくてはならない。汝は汝の精神的な子どもたちを教えているのだから。

精神的な父親は肉体的な父親よりも優れている。なぜなら、後者がこの世の生命を授けるのに対し、前者は永遠の生命をその子に与えるからである。これが、神の法において、教師が相続人の中に挙げられている理由である。

今汝は、これらの子どもたちをみな、無償でいただいた。これは、肉体的な子どもを持つよりも良いことである。なぜならば、肉体的な子どもたちは父親に感謝しない。父親はしなければならないから子どもの世話をすると考える。ゆえに、父親が何をしてあげても、気にかけないのである。しかし、精神的な子どもたちは、父親の優しさに常に感謝する。これはまことに、慈善なる御方、汝の主の御恵みによるものである。(これまで未翻訳の書簡より)

63.おお聖約に確固たる汝よ!汝は、子どもの教育のために大いなる努力を払った。われは汝の努力に限りなく満足している。神に誉れあれ、汝はこの分野において奉仕することを可能にされた。アブハ王国の確証が汝を取り巻くことは確実である。汝は、繁栄と成功を得るであろう。

今日、信者の子どもらの教育と訓練は、選ばれし者らの最高の目標である。それは「聖なる敷居」への隷属、そして「祝福された美」に使えることと同じである。故に、喜んでこれを誇りにするが良い。(これまで未翻訳の書簡より)

64.おお、御国の子どもらの教育者なる汝よ!

汝は、地上のいかなる教師よりも誇りに感じて当然の奉仕をなすために立ち上がった。なぜなら、この世の教師たちは、人類の精神的または物質的力を開発するために人間的教育を用いるのに対し、汝は、神の庭園のこれらの若木を天国の教育に基づいて訓練しているのだから。また、御国の教訓を彼らに教えているのだから。

このような教育は、神の祝福を引きつけ、人間の完璧性を明らかにするであろう。

この種の教育をしっかりと固守せよ。なぜならば、それがもたらす実りは、大いなるもの故に。子どもらは、幼い時から、精神的で神々しいバハイとなるように育てなくてはならない。彼らがそのようなしつけを受ければ、あらゆる試練から守られるであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

65.おお、神のご好意を受け取る者らよ!この新しく、すばらしき時代において、揺るがすことのできない基板とは科学や芸術を教えることである。明白なる聖典によると、あらゆる子どもは工芸や芸術を必要に応じて教育されなくてはならない。故に、あらゆる町や村には学校が建てられ、そこに住むあらゆる子どもは必要に応じて学業に従事しなくてはならない。

したがって、これを実現させるために人が施す援助は全て、必ずや天なる敷居にて受け入れられ、天上の群集により賛美されよう。

汝らは、この最も重要な目的のために大変な努力を払った故に、明白なる表徴と印の主から報いを得られ、天なる恵みの視線が汝らのほうへ向けられることを、われは願っている。(これまで未翻訳の書簡より)

66.高遠なる決意と崇高な目標を持った汝らよ!汝らの手紙は雄弁であり、その内容は斬新なものであり、繊細に表現されていた。それは、男子、女子両方を含む子どもらの教育という偉大で賞賛されるべき努力を表していた。これは、あらゆる人間の努力の中で最も重要なもののひとつである。聖なる庭園の若木であるバハイの子どもらには、できる限りの教育の手段が提供されるべきである。人類の啓発はそこにあるのだから。

神に誉れあれ。イシュカバードの友らは、しっかりとした基盤、難攻不落の土台を敷いた。最初のバハイ礼拝堂が建てられたのもその「愛の都」であった。今日、この町では、子どもの教育のための手段が開発されている。戦争の間でさえ、この努力が怠られることはなかった。むしろ、不足したものが補われたほどである。汝らは今、努力を範囲を広げ、高等教育のための計画を立てなくてはならない。そうすれば、「愛の都」は科学と芸術に関するバハイの中心点となろう。「祝福された美」の豊富なご援助により、そのための手段は提供されよう。

女子のための学校に特別な注意を払うが良い。このすばらしき時代の偉大さは、女性の世界の進歩の結果として現れよう。これが、あらゆる国において女性の世界が行進を続けている理由である。これは、「最も偉大なる顕示者」の影響と神の教えの力によるものである。

学校での教育は、宗教的な教育から始めなくてはならない。宗教的な教育を施し、子どもの心を神の愛に結びつけてから、他の学問の分野における教育をするが良い。(これまで未翻訳の書簡より)

67.おお汝ら、アブドル・バハの大切で愛されし者らよ!友のひとりが、イシュカバードの学校に関する手紙をわれわれに送った。その内容とは、神に誉れあれ、そこの友らは、学校を運営するために一生懸命努力しており、十分な資格のある教師を任命し、今後、学校の管理と運営に最大の注意が払われる予定である、というものであった。

同じように、ご寛大なる王である神のご好意と賜物とが汝らを取り巻くことをわれは願っている。さらば友らは全てのことにおいて他者に勝るであろう。

最も重要な事業のひとつは、子どもの教育である。成功と繁栄は、聖なる方、栄光に満ちたもう方である神への奉仕と崇拝に依存するからである。

全ての偉大なる奉仕のひとつは、子どもの教育であり、様々な科学や工芸や技能の推進である。神に誉れあれ、汝らは今や、この目標のために多大な努力を払っている。この最も重要な仕事において頑張れば頑張るほど、汝らは神の確証を目撃するであろう。汝ら自身が驚嘆するほどに目撃するであろう。

これはまことに、まったく疑いの余地のないことであり、必ずや果たされる誓いである。(これまで未翻訳の書簡より)

68.おお、万軍の主の真なるしもべたちよ!

タイード校[7]のために捧げている汝らの奉仕は最高の賞賛に値する。神がそのご恩恵にて汝らに多くの天なる祝福を下されることは確かである。

信者たちは、子どもが知識を習得するための学校を建てる義務がある。これらの友が、この目的のために犠牲を払う誓いを立て、タイード校のために寄付をしている故に、アブドル・バハは慎ましく謙遜して、神秘の王国に感謝と賛美を捧げている。恩恵が汝らに下され、心の平穏がかなえられるよう、アブドル・バハはお願いしている。されば汝らは、この最も賞賛されるべき奉仕が滞りなく、また歓喜もて成功せんことを。

おお供給者なる御方よ!これらの魂は、善行をなしております。彼らを両方の世界にとって大切なる者となし、計り知れない御恵みの受領者となし給え。あなたは力強き方、有能なる方、お与えになる方、授け給う方、比類なき主におわします。(これまで未翻訳の書簡より)

69.全身全霊を捧げて神の大業に奉仕するために立ち上がった汝よ!

その学校について汝らが書いたことは、大きな喜びをもたらし、心を歓喜させた。友らはみなこの知らせに喜び、活気づけられた。

この学校はまことに、人類という構造物を支え、強化する重要不可欠な機構のひとつである。神の御心がかなえば、それは発展し、あらゆる点で完成しよう。この学校が、あらゆる面で完璧になり、繁栄し、他の全ての学校よりも優れるようになったら、他の学校も同じように、もっともっと建てなくてはならない。

われわれが意図することは、友らは、ペルシャの子どもらの教育と訓練に注意を向けなくてはならないということである。されば、子どもらはみな、真の学識の学校にて理解力を得、宇宙の内なる実在性を知るようになり、そして、神の徴と神秘を明かすようになり、主の知識の光と主の愛により明るく照らされよう。これこそ、全ての民を教育する最善の方法である。(これまで未翻訳の書簡より)

70.タールビヤト校[8]をさらに改善し、秩序と規律を伸ばすことにあらゆる努力を尽くすが良い。この学校を慈悲深き御方の庭園となすためにあらゆる手段を活用せよ。さればそこからは学識の光が光線を放つであろう。そして、そこの子どもたちは、バハイであろうとなかろうと、神から人類への贈り物となり、人類の誇りとなるほどに教育されるであろう。最短の時間で最高の進歩を遂げさせよ。眼を開かせ、万物の内なる実在性を発見させよ。また、あらゆる技能や技術を習得させ、存在する万物の秘密を理解させよ。この能力は、聖なる敷居への隷属の明確な効力のひとつである。

これを実現させるために汝らは必ず、できる限りの努力をするであろう。そして、多数の学校を開校する計画を立てるであろう。これらの学業のための学校は、同時に、行動と振る舞いのしつけをする学校でなくてはならない。そして、科学や芸術の修得よりも人格と振る舞いの教育を優先させなくてはならない。善き振る舞いと優れた道徳性の人格がまず優先されなくてはならない。なぜなら、人格がしつけられなければ、知識の習得は有害になるだけだから。知識は、倫理的な行動および高徳な人格と合わせられて初めて賞賛される。さもなくば、それは致命的な毒であり、恐ろしく危険なものである。邪悪な医師、信託を裏切る医師は、死をもたらし、数多くの病や病気の源となる。

この事柄に最高の注意を払うが良い。学校の基本的な原則とは、まずは道徳的訓練、人格の形成、行動の是正にあるからである。(これまで未翻訳の書簡より)

71.おお、神の友らよ。全てに慈悲深き御方は人類をこの依存的世界を飾るために創り給うた。人間が地上を天国の様々な祝福で飾るためである。また、人間の内なる実在性が精神のランプのごとく、人類の共同体を天上の群集を映し出す鏡のようになすためである。

学識が神の最大の賜物であることは明らかである。また、知識とその習得が天から下された祝福であることも明らかである。したがって、神の友らは、聖なる知識と教養と科学を積極的に促進するよう努力することが似つかわしい。それは、今日、就学年齢の子どもらが賢者の集まりの中で最も学識ある者らになるほどに努力しなくてはならないのである。これは神ご自身になされる奉仕であり、避けることのできない神のご命令のひとつである。

故に、おお、愛情深き友らよ、タルビヤト校を啓発の中心となし、真理の源泉となすよう、心魂こめて精一杯努力せよ。されば、聖なる庭園のこれらの若木は、知識と真の理解の雲から降ってくる御恵みにおいて成長し、生い茂るであろう。そして、知者の集まりを驚嘆させるほどに進歩を遂げるであろう。

神の英知の恩恵により誓う。彼らこの褒美を勝ち得るならば、タルビヤト校の人々は、神の会合に入ること許され、疑いなく、彼らには、神の御恵みの扉が広く開かれるであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

72.おお、聖約に忠実なる者らよ!神に誉れあれ、汝らは、ミフデイヤバード[9]に学校を建てることに成功した。そして精力的かつ熱心に、子どもの教育に従事している。

この新しくすばらしき大業では、あらゆる知識の分野の推進は、不動で不可欠の原則である。友らは例外なく、この目標達成のためにあらゆる努力を惜しんではならない。されば、「明白な光」の大業は、四方に広げられ、あらゆる子どもは、必要に応じて、科学や芸術の分け前に預かるであろう。そしてやがて、教育をまったく受けていない小作農夫の子どもでさえもいなくなるであろう。

基礎的な知識が教えられることは不可欠である。全ての者が読み書きできることが不可欠である。故に、この新しい機構は大いなる賛美に値する。そのプログラムは奨励されるべきである。他の村々も汝らの後に続くことが望まれている。また、一定数の信者のいる村には全て、子どもらが読み書きや基礎的な事柄を学習する学校が建てられることが望ましい。

これこそ、アブドル・バハの心に喜びをもたらし、彼の魂に励ましと平穏をもたらすことである。(これまで未翻訳の書簡より)

73.おお、聖約に確固なる者らよ!まずは神の存在とその一体性の証拠、預言者や使者たちの使命とその教え、そして宇宙の驚異から始めるという教育法は非常に適切である。神の確証が汝らに下されることは確かである。書簡、聖句、聖なる伝承を暗記することも非常に賞賛されるべきことである。

教育し、理解を深めるため、汝らは必ずやあらゆる努力を尽くすであろう。(これまで未翻訳の書簡より)

74.子どもたちについて。5歳から正規の教育を始めなくてはならない。つまり、昼間の間、子どもたちは教師たちのいる場所で教育を受け、良き振る舞いについて学ぶべきであるということである。

そこでは、子どもらは、遊びを通して文字や単語、そしていくらかの読みについて教わるべきである。ちょうど、他の国で行っているように、お菓子で文字や言葉を作って、それを子どもにあげながら教えているように。たとえば、「a」の形をしたキャンデイーを作り、「a」と言わせてみたり、「b」の形をしたキャンデイーを作って「b」と言う練習をしたりしてアルファベットの学習をさせるのである。こうして子どもらは、文字をすぐに覚えるであろう...

子どもが床につく時間になったら、母親には「祝福された美」の詩を読んだり歌って聞かせたりせよ。されば、子どもらは幼い時からこれらの導きの聖句により教育されよう。(これまで未翻訳の書簡より)

75.おお、神のしもべなる汝よ!汝は、子どもの教育について尋ねた。子どもたちは、「祝福された樹」により覆われ、世界に足を踏み込み、信教においてあやされ、御恵みの胸元で育てられるよう、幼い時から母親により直接、精神的なしつけを受けなくてはならない。つまり、母親は、神を常に思い起こし、神の名を述べ、神の偉大さについて語り、子どもに神への畏れを植えつけなくてはらない。また、優しさと非常なる清潔さについて子どもに優しく教えなくてはならない。こうして、あらゆる子どもは、幼い時から、神の愛の微風により活気づけられよう。そして、天なる導きの甘い香りをかいで、喜びに震えよう。これが、全ての過程の始まりである。これが、残りの部分の不可欠な基盤となるのである。

物心がつく年齢になったら、子どもをバハイの学校に行かせるが良い。そこでは聖典を読み聞かせ、宗教的な概念を植えつけるが良い。この学校では、読み書きの他に、子どもが学べる範囲で様々な分野の基礎を学ばせよ。

より具体的に言えば、まず教師は子どもに筆を持たせ、子どもらをグループに分け、能力に応じて指導しなくてはならない。子どもが定められた場所に列になって座ったならば、筆と紙を持たせよ。そして教師が黒板を子どもらの前に置き、チョークで物を書いたら、子どもらにそれを書き写させよ。たとえば、教師が(ペルシャ語の)「アリフ」というアルファベット文字を書き、「これはアリフです」と言ったとしよう。子どもたちはそれを書き写し、「これはアリフです」と言わせよ。このようにして、アルファベットの最後の文字まで学ばせる。子どもらが文字を適切に認識できるようになったなら、教師は、次に文字を組み合わせる。教師のするとおりに、子どもたちも文字を組み合わせて、紙に書き写す。こうして子どもらは、文字をそれぞれ認識するようになり、またその組み合わせにより単語を認識できるようにする。次に教師は文章を書く。子どもらは自分の紙にそれを書き写し、教師は文章の意味を説明する。

子どもらがペルシャ語がわかるようになったら、教師は単語を訳し、生徒にその意味を聞いてみる。生徒が少しわかるようになり、訳ができるようになったら、教師は誉めてあげよ。誰もできなかったら、教師はその訳を単語の下に書く。たとえば、アラビア語で「サマ」と書いて「これはペルシャ語でどう言いますか?」と聞く。ある生徒が「この単語のペルシャ語訳はアシマンです」と答えたら、その生徒を誉めてあげよ。誰も答えられなかったら、答えを言い、それを黒板に書く。生徒たちはそれを書き写す。

それから「これはロシア語、フランス語、トルコ語では何と言いますか?」と聞く。もし答えを知っていれば、すばらしい。もし知らなければ、教師は、「ロシア語またはフランス語では、これは何々と言います」と答えてそれを黒板に書く。子どもらはそれを書き写す。

子どもらが単語を訳すことができるようになったら、教師は単語を文章にし、それを黒板に書き、子どもらにそれを訳させる。誰も答えられなければ、教師が文章を訳し、それを黒板に書く。当然、教師はいくつかの言語を使えることが好ましい。

こうして短期間に――つまり三年で――子どもらは言葉を書き写すことでいくつかの言語が十分わかるようになり、文章をある言語から他の言語に訳せるようになる。これらの基礎がわかるようになったら、他の分野の基礎を学ばせよ。それが終えたら、能力があり、強い願望があるならば、高等学習機関に通わせ、進んだ科学や文芸を学ばせよ。

しかし、全ての子らがこれらの高等な学問に従事できるわけではない。したがって、そのような子らには、職業学校へ通わせ、技能を学ばせよ。そのような技術を学んだら、子どもの好みや趣向に任せるが良い。商業が好きであれば、商業へ進ませるが良いし、工業であれば工業へ、高等な学問であれば高等な分野を学ばせよ。人類の役に立つ他の分野に関心があれば、その分野へ進ませよ。趣向と願望と才能のある分野に進ませれば良いのである。

[1] コーラン3:67

[2] コーラン56:62。ある書簡で、アブドル・バハは、これは来世と対照させて、今世を指していると述べている。

[3] ペルシャの優れた信者で、バハイの教師のための最初の訓練所を確立した人物である。
[4] 米国ウイスコンシン州、ケノシャのバハイ子どもクラスのこと。

[5] コーラン25:55、35:13、55:19-25.アブドル・バハの「結婚の祈り」も参照のこと。

[6] 「質疑応答集」の第81章(輪廻転生)を参照のこと。
[7] ペルシャのハマダンにあるバハイの学校

[8] ペルシャのバハイ共同体が所有し運営した最初の学校。テヘランに位置していた。ペルシャのバハイ学校の設立と、後の強制的な閉鎖の歴新ついては「神よぎり給う」(英語版)のpp.299、363、371、372を参照。

[9] ペルシャのヤズドの近くにある村。
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