20世紀の大いなる遺産とは、世界中の人々が自らを同じ人類の一員と見なし、地球を人類共通の祖国として認識しはじめたことです。紛争と暴力の暗雲は、未だ地平線上に立ちこめてはいます。しかし、人類に本質的に備わっているとかつては思われていた偏見は、現在至る所で崩壊しています。同時に、長い間、人類家族を様々な文化的・民族的・国家的な理由で分裂させてきた障害物も崩壊しています。20世紀は、歴史全体という視点から見れば、一夜にしてと言っても過言ではありませんが、それほど短期間の間に、これほどの根本的変化が起こり得たということは、未来に託された可能性がいかに大きいかを如実に示すものです。
[2]そもそも、組織化された宗教が存在する理由は、同胞愛と平和という大義を推し進めることです。しかし、残念なことに、まさにその宗教が、同胞愛と平和の実現を阻む、最大の障害物のひとつとなっているのです。その痛ましい例のひとつとして、宗教は長い間、狂信的であることを正当化してきたということです。私たちはひとつの世界宗教の執行機関として、宗教指導者たちに課されたこの課題について真剣に審議するよう強く促す責任を感じます。そして、この問題とそれがもたらす状況に鑑み、率直に発言せざるを得ないと考えます。私たちは善意の精神をもってこの提言をいたします。このメッセージを受け取られた皆様におかれましても、同じく神聖なるものに仕えているという立場から、同様の精神をもってこれらの提言を受け入れていただけると確信するものです。
[3]宗教の抱えるこの課題は、他の分野で人類が達成してきたことを考えるとき、よりはっきりと見えてきます。たとえば、過去、極めて稀な例外を除いて、女性は劣った存在と見なされ、女性についてはたくさんの迷信がありました。また、女性は人間の精神が有する潜在能力を表現する機会を奪われ、男性に仕える存在として見下されていました。明らかに、そのような状態が未だに存続し、それが狂信的に支持されている社会が数多くあります。しかし、グローバルな議論の段階では、男女平等の原則は、事実上、普遍的なものとして受け入れられています。この概念は、また、学問やメディアの世界の大半で同じように確立したものとなっています。この意識変革はあまりにも決定的であったため、男性優位主義の提唱者は今や、良識ある世論には受け入れられなくなっています。
[4]ナショナリズムも同じく苦境に立たされ、同じような運命を辿っています。世界情勢の危機が訪れ、過ぎ去るごとに、人々は今まで以上に、生活を豊かにする健全な愛国心と、他者への憎悪と恐怖を誘発するようなレトリックとを区別すること容易にできるようになってきました。過去、人々は確信と熱意をもって国家主義的な行事に参加してきました。しかし今や大衆は、慣れ親しんだこれらの行事に参加することも、たとえ都合のよいことではあっても、多くの場合、それに気後れを感じてさえいます。この傾向は、国際秩序の着実な再構成によって強化されています。現在の国際連合の短所が何であれ、また武力に対する集団的軍事行動の能力にどれだけの障害があろうとも、盲目的崇拝の対象として拝まれてきた絶対的な国家主権が滅亡に向かって進んでいるということは誰も疑いを持ちません。
[5]同様に、人種的・民族的偏見も持ちこたえられないでいます。歴史的過程の進行はもはや、このような偽りを容認できず、人種的・民族的偏見はナショナリズムと同様、冷たくあしらわれています。ここには特に過去に対する断固とした拒否が見られます。人種差別は20世 紀に繰り広げられた惨劇と関連づけられ、病める精神と見なされるまでになりました。確かに人種差別は世界の多くの地域でいまだに社会的習慣として存続して おり、多くの人々の生活を蝕み続けています。しかし、人種差別は原則として広く非難され、誰であれ人種差別を平然と唱えることはできなくなっています。
[6]とは言え、暗い過去が抹消され、光に満ちた新しい世界が突然生まれ出たわけではありません。膨大な数の人々が、いまだに民族・性別・国籍・社会的地位・階級を理由にした根強い偏見の影響を受け続けています。人類が築きつつある機構や基準が人間関係に新しい秩序をもたらし、抑圧されている人々を救済できるほどになるにはゆっくりしたプロセスが必要です。したがって、このような不正は今後も長く続くでしょう。むしろ、ここでの要点は、人類がもはや後戻りすることのできない地点を通過したということです。根本原則はすでに確認され、明確にされ、広められています。これらの原則は、それを社会の行動に適用する権限を有する機関によって徐々に具現化されています。この闘争がいかに長引き、苦痛を伴うものであろうとも、最終的には、あらゆる民族間の関係を草の根レベルで画期的に変えていくことでしょう。
*20世紀を迎え、他のいかなる偏見よりもいち早く変化の勢力に屈すると思われたのは宗教的偏見でした。すでに西洋では、科学的進歩によって宗派的な排他主義の支柱が危うくなっていました。人類の自らに対する意識そのものに起こりつつあった変革に関して、最も有望視された新しい宗教的な発展は、宗教間の交流活動でした。1893年に開催されたコロンビア万国博覧会は、かの有名な「世界宗教議会」を産み出し、その意欲的な主催者を驚かせました。世界宗教議会は精神的・道徳的な合意を目差していました。各大陸で大衆の注目の的となり、科学技術や商業における驚異的な発展を称えるという、博覧会が目指した目的を凌ぐほどの関心を集めました。
[8]つかの間ですが、昔からあった壁が崩れたかのように見えました。この集まりは宗教の分野で有力な思想家たちにとって「世界史において前例のない」、ユニークなものでした。この会の開催にあたって中心的役割を果たした著名な人物は、この議会について「世界を頑迷から解放した」と述べました。人々は、創意に富んだ指導者たちがこの機会を捕え、 長い間対立してきた宗教間に同胞愛の精神を目覚めさせ、この精神が、繁栄と進歩に満ちた新しい世界の必要とする倫理的基盤を提供するであろうと自信をもっ て予測しました。このような支持のもとに、あらゆる種類の宗教間交流活動は根を張り、栄えました。数々の言語による膨大な文献を通して、あらゆる主要な宗 教の教えが、信じる者と信じない者を問わず、世界中の人々に広く紹介されました。宗教に対するこの関心は徐々に、ラジオやテレビ、映画、そしてインター ネットによっても取り上げられるようになりました。各地の高等教育機関では比較宗教学の学位を授与するプログラムが開設されました。そして、20世紀末までには、その20、30年前には考えられもしなかった宗教間の共同礼拝などが頻繁に行われるようになりました。
[9]しかし、悲しいかな、これらの動きには論理的一貫性と精神的コミットメントが欠けているのも明らかです。統合のプロセスは、人類のあらゆる社会構造を変革させています。対照的に、世界の大宗教がその性質と起源において同等であるという概念は、頑固な宗派主義的思想によって拒絶されつづけています。人種間融和の進歩は単なる感傷的な考えや戦略によるものではありません。むしろ、それを支えているのは、地上のすべての人間がひとつの人類を構成するものであり、人種の多様性はそれ自体、誰かを有利な立場に立たせるものでも、あるいは劣勢に立たせるものでもないという認識です。同様に、男性と同等の権利を女性に与えないということ、あるいは、男子と同等の教育の機会を女子から奪うということを正当化する根拠は、生物学的にも、社会的にも、道徳的にも存在しません。これを社会の機構や世論が認識したことによって、女性解放は前進しました。同じく、地球文明建設への貢献を評価するにあたり、ある国は大きな貢献をし、他の国はしてないと主張するような、以前から受け継がれてきた幻想を支持するものでは決してありません。
[10]宗教指導者たちは、多くの場合、これほど抜本的な方向転換に取り組むことができないように見えます。宗教以外の分野では、人類の一体性は文明の発展における必然的な次の段階として受け入れているだけでなく、人類史のこの決定的な瞬間において、その他あらゆる種の小異のアイデンティティーを融合し完成させるものとして待望されているのです。しかし、組織宗教の大部分は、未来への入り口に立った今、人類を分裂させた最も悲惨な争いを引き起こしてきた教義、あるいは自分たちだけが真理を知ることができるという主張に囚われて、麻痺状態に陥っています。
[11]人類の福利の観点からすると、宗教のこの状況は破滅的な結果をもたらしました。宗教の名を辱めるような狂信が噴出し、今日、いかに多くの人々が不運な状況にあり、恐怖に追いやられているか、詳しく述べる必要もありません。また、この現象は決して最近に限ったものではありません。数ある例のひとつをあげると、16世紀のヨーロッパにおける宗教戦争は、同大陸の全人口のうち、約3割の命を奪いました。宗派主義的な教義に基づく盲目的な勢力は、そのような争いを引き起こし、人々の意識に種を植え付けました。しかし、それは一体、長期的にはどのような収穫をもたらしたというのでしょう。
[12]この説明に含むべき要素がもうひとつあります。それは宗教が知性に背を向けたということです。これは、世界を動かすうえで決定的な役割を果たすという、本来、宗教に備わった能力を宗教から奪った最大の要因です。宗教機構は人間の活力を低下させ、その効力を奪うような活動に没頭し、そのためしばしば、真理の探求や、知的な機能を阻む主な要因になってしまいました。物質主義やテロリズムを弾劾する前にまず、それに引き込まれていく人々がなぜ、これほど無防備にこれらの現象に影響されるかについて、その責任の所在と率直に向き合わなければなりません。さもなくば、現代の道徳的危機への対応として役には立ちません。
[13]このような反省がいかに苦痛であろうとも、それは宗教への非難ではありません。むしろ、宗教が有する独特の力を思い起こさせるものです。周知のとおり、宗教は動機づけの根本に関するものです。世界の偉大な信仰体系を樹立した、超脱的な『人物たち』の精神と模範に忠実であった時、宗教は、許し、愛し、創造し、勇敢に挑み、偏見を克服し、共通の善のために犠牲となり、動物的本能の衝動を規制する能力を信者全員に呼び起こしました。人類の文明化を推し進める最大の力は、疑いもなく、有史の夜明けまで遡って継続して現れる「神聖なるもの」を顕示する者たちがもたらす影響力です。
[14]過去の時代に非常な影響力を及ぼしたこの力は、人間の意識にある、消し去ることのできないしるしです。この力は、最も過酷な状況下で、また、誰からの援助もほとんど得られない状態で、何億もの人々の奮闘を支え、英雄や聖人を生み出し続けています。彼らの人生は、各宗教の聖典に収められている原則を立証するものとして最も説得力あるものです。文明の辿った道が実証するように、宗教は、人間関係にも深い影響を及ぼしてもいます。実際、文明の進歩において、この永続する源から道徳的推進力を得ていない例を思いつくことは困難なほどです。それでは、何千年にもわたる地球の組織化において、完成段階へ至るまでの過程が、精神的な真空状態で達成できると考えられるでしょうか?今過ぎたばかりの20世紀に世界に放たれた、誤ったイデオロギーに何らかの貢献があったとすれば、それは、人類が必要とするものは人間が考え出した代案では満たされないということを決定的に実証したということでしょう。
*これらが今日に暗示するものは、100年以上前に書かれ、その後広く伝えられてきたバハオラの次の言葉に述べられています。
[16]世界の諸民族は、その人種や宗教の背景が何であろうとも、同じ天上の「源」から霊感を受け、唯一の神の民であるということには疑いの余地がない。彼らが従う掟の相違は、啓示された時代の様々な必要条件や状況によるものと見なされるべきである。人々の頑迷により生じたいくつかのものを除いて、全ての掟は神が定めたものであり、神の意志と目的を反映するものである。立ち上がり、信仰の力で身を固め、汝らの空虚なる想像物という偶像を粉砕しなさい。そして、汝らを互いに引き寄せ、一体化させるものにすがりなさい。
[17]この訴えかけは、世界の偉大な信仰体系の根本真理に対する信仰を捨てることを求めるものではありません。いや、それとはかけ離れたものです。信仰には独自の規範があり、正当性があります。個人の良心は他者の信仰や信念に左右されるものではなく、もし左右されるのであれば、それは良心という名に値しません。先に引用した言葉が訴えていることは、排他性や最終性に関するあらゆる主張を放棄することです。この排他性と最終性の態度は、人間の精神の生命を損ない、和合への道を閉ざし、憎悪と暴力を助長する最大の要因となっているからです。
[18]宗教指導者たちは、この歴史的挑戦に立ち上がるべきであると私たちは信じます。それは、20世紀の変革の中から出現しつつあるグローバル社会で、宗教的リーダーシップが有意義な機能を果たすためです。明らかに、多くの人々は、すべての宗教の基礎を成す真理は本質的に同一のものであることに気づいています。これは、神学論争の決着によるものではありません。むしろ、人々の経験の範囲が拡大したことと、人類の一体性を受け入れ始めたこと、このふたつからから生じる、直感的な意識なのです。滅び去った世界から受け継いだ多くの教義、儀式、法典の混乱状態から、新しい感覚が現れています。それは、多様な国籍、人種、文化の中に見られる一体性と同様、精神的生活は、分割できないひとつの真理であり、誰もが平等にそれに達することができるという意識です。この今だあいまいな見解が確固としたものとなり、平和な世界の建設に貢献できるようになるには、地上の大衆から今なおも導きを求められている人々の全面的な承認が必要とされるのです。
[19]確かに、世界の主要な宗教の間には、社会的戒律や礼拝の形態に大きな差異があります。継続的に出現した『神聖なるもの』の啓示が何千年もの間、常に進歩する文明の必要とすることに応えてきたことを考えれば、このような差異はむしろ当然と言えます。実際、ほとんどの主要な宗教の聖典に見られる特徴のひとつとして、宗教は進化するという性質が、何らかの形で表現されています。元来、精神的な経験を豊かにすることを目的とされていた文化的遺産を操り、偏見や疎外感を助長する道具として悪用することは、道徳上、決して容認できません。魂にとって最も重要な課題は、常に、真理を探究すること、自身が納得し受け入れた真理に従って生きること、そして、同じような努力をする他者に対して十分な敬意を払うことです。
[20]さて、あらゆる偉大な宗教が同じ神聖なる起源に基づくと認めた場合、それは、ある宗教から他の宗教への改宗を奨励するのではないか、あるいは、助長するのではないかという異論があるかも知れません。この異論の正否は別として、この地上の生活を超越する世界を意識している人々に与えられた機会のすばらしさ、そしてこの意識により課された責任の度合いを考慮すれば、この異論の意義は、末梢的なものです。すべての大宗教にはそれぞれ、道徳的人格を育むことにおけるすばらしい、信じるに足りる証拠をあげることができます。同様に、ある信教の教義は他の信教のそれに比べてより多くの頑迷や迷信を生み出だしたという納得のいく議論をすることもできません。統合に向かう世界では、対応や関連のパターンが常に変化することは当然です。むしろ、これらの変化をいかに、和合を推進するような方法で管理するかが、社会の機構に課せられた役割なのです。その究極の結果が精神的、道徳的、社会的に健全なものになるかどうかは、意見を求められない地上の大衆の信念の中にあります。その信念とは、この宇宙が、人間の気まぐれではなく、愛に満ち、決して裏切ることのない神の摂理により支配されているという信念です。
[21]われわれは今、人類を隔てていた障壁の崩壊と平行して、もうひとつ壁が崩壊し、消滅するのを目のあたりにしています。それは、かつて、天国での生活と地上での生活は永遠に分離されたものであると信じられていた、克服しがたい壁のことです。あらゆる宗教は常に、他者への奉仕を道義的な義務としてだけでなく、魂を神に近づける道として見なすよう、信者達に説いてきました。今日、社会の再構成が進むことにより、このよく知られた教えには新たな意味合いが明らかにされました。世界は正義の原則によって支配されるという、太古からの約束が現実的な目標となるにつれ、魂の要求を満たすことと、社会の要求を満たすことは、成熟した精神的生活を相互に補足しあう局面であると見なされるでしょう。
[22]宗教の指導者たちがこの視点の示す挑戦に応えるのであれば、まず確認しておかなければならない点があります。つまり、宗教と科学は共に欠くことのできない知識体系であり、人間の意識は双方を通じてその潜在能力を発揮できるということです。宗教と科学は対立するどころか、むしろ、知性を通して真理を探究するための根本的な形態を提供し、相互依存する関係にあります。そして、両者が相互に補足し合う性質が認識され、協力関係ができていた時、宗教と科学は最も生産的でした。ただ、そのような幸福な時期は、歴史には稀でした。科学の進歩によって得られた洞察と技術は、正しく応用するためには、常に精神的・道徳的な導きが必要です。一方、宗教的な信念も、それがいかに尊ばれるものであれ、感謝の念を持ち、進んで科学的方法による公平な評価を受けなければなりません。
[23]最後にやや慎重に取り扱うべき課題を取り上げます。これは、良心に直接関係するものです。この世のさまざまな誘惑の中で、宗教的指導者たちを最も悩ませた試練は――驚くこともないでしょうが――信仰に関する権力行使の問題です。なんらかの偉大な宗教の聖典を真剣に研究し、熟考することに年月を費やした人であれば、しばし繰り返される公理を今さら思い起こす必要もないでしょう。つまり、権力は腐敗をもたらす可能性があり、権力が拡大するにつれてその可能性も増すというものです。あらゆる時代に、権力の誘惑に打ち克った無数の僧侶たちの名もなき勝利は、疑いなく、組織宗教の持つ創造的な力の源泉のひとつです。また、宗教の最高の業績のひとつです。同様に、世俗的権力と利益の誘惑に屈した他の宗教的指導者たちの行為は、それを目にする人々の冷笑、腐敗、失望を引き起こしてきたことも事実です。この点に関して、歴史のこの時点において宗教的指導者たちが果たすべき社会的責任にどのような意味合いがあるかについては、改めて述べる必要もありません。
[24]宗教は人格を高め、人間関係を調和させることに関与してきたため、人生に意味づけをすることに関しては、いつの時代も究極の権限を持ってきました。全ての時代において、宗教は善を培い、悪を戒めてきました。また、目を向ける用意のあるすべての人に、いまだ実現されていない可能性がいかなるものか、そのビジョンを提供してきました。理知的魂は、この世界が課す限界を克服するため、また自己実現をするため、宗教の助言から励ましを得てきました。同時に、”religion”という言葉が暗示するように、宗教は多様な人々を、より拡大し、より複雑化した社会で和合させるための主な力でした。また、こうして発揮された個人の能力に表現の機会を与えてきました。この時代の大きな利点は、全人類がこの文明化のプロセスをひとつの現象として見ることができることです。その現象は、われわれ人間の世界と、神の世界が繰り返し遭遇するという現象です。
[25]このような視点に刺激を受け、バハイ共同体は、宗教間活動が始まって以来、絶えずその熱心な促進者であり続けました。これらの活動によってもたらされる貴重な絆に加えて、バハイは、多様な宗教同士が互いに近づこうと努力すること自体、「神の意志」に対する返答であると考えます。その意志とは、成熟の段階に入りつつある人類に対する神の意志です。私たちバハイ共同体のメンバーは、今後もできる限りの援助を続けます。しかし、私たちはこの共通の活動で共に努力する皆様に対し、われわれの固く信ずる事を明確に述べておく責任があると感じます。つまり、宗教間の対話が、絶望的な人類を苦しめる疾病を癒すことに意義ある貢献をするためには、この運動をもたらした根本的真理が元来意味するところを、これ以上避けることなく、率直に語らなくてはなりません。それは、神はひとつであるということ、そして、宗教もあらゆる文化的表現や人間的解釈の多様性を超えて、ひとつであるという真理です。
[26]宗教的偏見の炎が世界的な大火を引き起こす危険性は日ごとに、ますます強くなっています。その大火のもたらす結果は、誰にも想像できません。各国政府の力だけでは、この危険を克服することもできません。また、お互いに寛容であろうと呼びかけるだけで、敵対心を消し去れるという妄想を抱いてもなりません。それは、自分達は神の承認を受けているという主張する者同士の敵対心です。この危機は、宗教的指導者たちに、過去との決別を要求しています。それは、人種・性別・国籍といった、等しく有害な偏見をなくそうと社会が心を開いた時に示したと同様の、確固とした決別です。良心に関して他者に影響力を行使することを正当化できるのは、人類の安寧に奉仕することにおいてのみ、見出せるのです。文明の歴史における、この最大の転換期において、このような奉仕が求められているということは、これ以上明白ではありえません。バハオラは、こう促しています――「人類の安寧と平和と安全は、人類の和合がしっかりと確立されない限り、達成し得ない」。
万国正義院バハイ信教(The Baha’i Faith)の国際行政機関である万国正義院(The Universal House of Justice)はイスラエルのハイファに本部がある。
interfaith movement排他性は、自分の宗教のみが真実であり,他の宗教はそうでないと否定すること。最終性とは,自分の宗教が神による最後にして完全な啓示であるとすること。
宗教的指導者を含め、社会的主導者達は、これまで大衆の意見を求め、協議するという態度に欠けていた。religionは由来がラテン語で, re(再び、戻す)とligo(結びつける、和合させる)の合成語である。